「…………やっぱりこう来たか」 想定通りの展開に、愛美は頭を抱えた。これじゃ、『あしながおじさん』の物語とほとんど同じではないか!(純也さん……、もうちょっと捻ってもよかったんじゃないの? これじゃいくら何でもあからさま過ぎでしょ)「愛美、〝やっぱり〟って何が?」「あー……、えっと。『あしながおじさん』のお話の中にも、これと似たようなシチュエーションが出てくるの。ジュディが夏休みに家庭教師の仕事をするって手紙で報告したら、〝あしながおじさん〟が彼女に旅行に参加することを勧めるんだけど。ジュディがそれを断ろうと思って手紙を書いてる時に……、これ以上はちょっとネタバレになるから詳しくは言えないけど」「「…………なるほど」」 愛美の説明に、親友二人は頷いた。彼女たちは『あしながおじさん』の本を読んだことがないけれど、だいたいの事情は理解できたらしい。愛美にとっての〝あしながおじさん〟は純也さんだと、二人とも知っているから。「つまり、純也さんは家庭教師のバイトには反対で、多分愛美と一緒に旅行したくてこんなものを送ってきたってことか。自分もこのクルーズ船に乗るから、とか何とか言って」「純也叔父さま、やることがあからさま過ぎるわ」 まあ、実際に送ってきたのは久留島さんだけれど、純也さんの命令でしたのだから強(あなが)ち間違ってはいないだろう。「ホントだよね。でもわたし、船旅よりバイトを取るよ。もう引き受けちゃったもん、ドタキャンするなんてあり得ないから」「エラいっ! よく言った、愛美!」「やっぱり愛美さんは、意志が固くて立派でいらっしゃるわ。それでこそ愛美さんよ」 そうと決まれば、この船旅を断ると〝あしながおじさん〟に知らせなければ!「だよね。というわけでわたし、おじさまに手紙書くよ!」
****『拝啓、おじさま。 今日、秘書の久留島さんからの封書を受け取りました。 クルーズ船のツアー自体はすごく魅力的なお誘いで、こんな形で行くことを勧められなければ、わたしも参加を決めてたと思います。 でも、今回の返事は「No!」です。バイトはダメ、その代わりに旅行に行けなんて、そんなの筋が通るわけがありません! おじさまはきっと、わたしが奨学金を受けることになって浮いてしまった分の学費や寮費を、別の形でわたしのための何かに使いたかったんでしょう。その気持ちはすごく嬉しいし、その厚意は受け取らないと恩人であるおじさまにも申し訳ないと思うべきなんでしょう。 でもね、こんなやり方は違うと思う。もっと別の使い道もあると思います。だって、わたしが今、本当の意味で自立しようとしてるところなのに、それをジャマするのは保護者として間違ってると思うから。 生意気なことを言ってるのは自分でも分かってます。でも、こんな甘え方は間違ってるとわたしは思う。本来、学費として投資してたはずのお金を娯楽に使うのは、どう考えたって感覚がズレてるから。 それにね、わたし、おじさまに出してもらったお金は将来、全額返そうと思ってるから。今は奨学金のおかげでその金額が半分になって、ちょっと気が楽だなって思ってるところなの。娯楽のために使われるお金については、返済の対象外になりますけど、それでも大丈夫ですか? えーっと、何を言おうとしてたんだっけ? あ、そうそう! わたし、バイトの話はもう引き受けちゃったので、今さら「やっぱりできません」なんて言えません。わたしの信用に関わるから。 とにかく、今回のバイトのことはわたしが自立するための大きな一歩なので、おじさまには保護者として見守っててほしいです。』****
――と、ここまで書いたところで、愛美のスマホに純也さんからのメッセージが受信した。『今、寮のすぐ近くまで来てる。 これから会って話せないかな?』「…………えぇっ!?」 これまた『あしながおじさん』の物語通りの展開に、愛美はげんなりした。「……仕方ない。会いに行くかぁ」 ため息をつき、急いで返信した。『分かった。 それじゃ、一昨年の五月にお茶したカフェで待ってて。今から行きます。』「――愛美ちゃん、こっちこっち!」 愛美がカフェの店内に入っていくと、窓際のテーブルから純也さんが手を振ってくれた。 今日の彼は、ノーネクタイだけれどベージュのスーツ姿だ。多分、仕事中にわざわざ横浜まで車を飛ばしてきたんだろう。「いらっしゃいませ。ご注文は?」「ケーキセットを下さい。チョコレートケーキで、飲み物はストレートの紅茶で」 お冷やを持ってきてくれた女性のホールスタッフさんに、愛美はメニューも見ないで注文した。 純也さんもケーキセットを注文していたようで、テーブルには食べかけのいちごショートケーキのお皿があり、コーヒーを飲んでいる。「――で、話ってなに?」 グラスのお冷やをガブリと半分ほど飲んだ愛美は、自分から本題に切り込む。「おいおい、つれないなぁ。せっかく彼氏が会いに来たっていうのに」「わざわざそんな世間話をしに、横浜まで来たわけじゃないでしょ? ――もしかして、わたしが夏休みにバイトすることと関係ある?」 愛美はあえて、家庭教師のバイトの話を純也さんには伝えていなかったのだけれど。カマをかけてみると、彼がビクッとなった。「あ……、ああ。田中さんから聞いた。でも、彼は賛成してないみたいでね、愛美ちゃんにクルーズ船のツアーへの参加を勧めたって言ってたけど」(よく言うよ、白々しい! 『一緒に旅行したい』ってハッキリ言えないの? この人は) 愛美は内心そう毒づいたけれど、口に出しては言わずに別のことを言った。「うん。今日、秘書の人からこのチケットとパンフレットが送られてきたの。でも、わたしは船旅には行かないよ。もうバイトは引き受けた後だから、今さら断れないもん」「俺もそのクルーズ船に乗る、って言っても?」「……何それ? それで引き留めてるつもり? 純也さんもバイトには反対なんだね」 純也さん〝も〟と言ったのは、彼があくまで「田中
「ハッキリ反対とは言えないけど、俺も賛成はできないかな。君は自分を追い込みすぎてるように俺には見える。作家の仕事だってあるのに、どうしてバイトまでしなきゃならないんだ? お金に困ってるわけじゃないだろ」「別に、今回のことはお金が欲しくてやるって決めたわけじゃないよ。わたしを必要としてる人がいるから、それに応えたいって思うだけ。それに、ちゃんと作家業だって並行してやるし、それなら問題ないでしょ?」「それにしたって、俺は心配なんだよ。せめて一言相談してくれてたら、俺だって賛成してたよ。……正直、一緒に船旅を楽しみたかったのもあるけど。……確かに、十八歳は法律上は成人だ。選挙権もあるし、クレジットカードだって申請できる。けど、バイトをするにはやっぱり保護者にひとこと相談すべきだと――あ」(純也さん、今、ボロが出たことに気づいたな) 彼が一瞬「しまった!」と顔をしかめたのを、愛美は見逃さなかった。 ちょうどいいタイミングでケーキと紅茶が運ばれてきたので、愛美はチョコレートケーキと紅茶を一口ずつ味わってから再び口を開いた。ちなみに、伝票は純也さんの分と別になっている。「純也さんはわたしの保護者じゃないよね。――それはともかく、わたし、来年はもう大学生になるの。だから、早く自立したい。純也さんに釣り合うような、自立した女性になりたいの。今度のバイトはそのための第一歩でもあるってわたしは思ってる。それでも賛成できない?」「ああ、賛成できないね。どうして素直に甘えられないのかな、君は。今度の船旅だって、田中さんがいつも頑張ってる君に息抜きをさせてあげたくて提案したはずだ。その厚意も無下にするのか? 自立自立って、ただ意固地になってるだけじゃないか。自立心の強すぎる頑固なガキは始末に負えないよ」「ガキで悪ぅございましたねえ! だいたい、意固地なのはどっちよ? 自分の彼女が自立したいって言ってるのに、それがいけないことなの!? 一体、それの何が気に入らないの!?」 愛美だって、大好きな純也さんにこんなことを言いたくはなかったけれど、もう売り言葉に買い言葉だ。「…………あ~もう! 分かったよ! 勝手にしろよ! 俺はもう知らない!」「ええ、ええ、勝手にしますっ! もう話終わったならさっさと帰れば!? 自分の分くらい、自分で払うから!」「分かったよ、帰るよ!」 純
****『――と、ここまで書いた時に純也さんから『会って話したい』ってメッセージが来て、いつかのカフェで会うことになりました。 純也さんもわたしのバイトには賛成できないって。で、おじさまがわたしに勧めてくれたクルーズ船に自分も乗るから一緒に旅行しようって言われました。 でも、わたしは断りました。バイトの方が大事だし、引き受けたものは断れないから、って。早く自立したいから、この夏のバイトはそのための第一歩なんだとも言いました。 そしたら彼、何て言ったと思う? 「どうして素直に甘えられないんだ」って。おじさまはいつも頑張ってるわたしに息抜きをさせたいから船旅を提案してくれたのに、その厚意も無下にするのか、って。最後には、自立心の強すぎる頑固なガキは手に負えないって! わたしも売り言葉に買い言葉で、「自分の彼女が自立したいって言ってることの何が気に入らないの!?」って言い返してやりました。だって、言われっぱなしじゃムカつくんだもん! そしたら彼、「もう勝手にしろ。俺はもう知らない」って怒って帰っちゃいました。 というわけで、わたしも勝手にします。夏休み前にさっさと荷造りを済ませて、終業式が終わったら葉山に行っちゃいますから。葉山への行き方はさやかちゃんに教えてもらうし、分からなくなったらネットで調べます。 おじさまのご厚意を無下にしたことは申し訳ないと思ってます。でも、純也さんのことは許せない。しばらくはメッセージも既読スルーしてやるんだから! かしこ七月八日 自立心の強い頑固ものの愛美』****
――こうして始まった、高校最後の夏休み。愛美は純也さんとケンカ中のままで、葉山にある秦(はた)野(の)さん宅でバリバリ家庭教師のアルバイトに励んでいた。今日で四日目である。「――麻利絵(まりえ)ちゃん、この問題、当てはめる公式が間違ってるよ。もう一回最初からやり直してみようか」「え~~!? 面倒くさい! 愛美先生、もう休憩しようよー」「ダメ。この問題を解き直してからね」 仕事は主に、受験生であるこの家の長女・麻利絵の勉強を見てあげることなのだけれど。彼女の一学期の通知表を見せてもらったところ、今の成績では志望校合格は厳しいように思えた。 麻利絵は第一志望が私立高校なのだけれど、それでもギリギリ受かるかどうかというところ。愛美の指導に熱が入るのも致し方ないことだった。「……で、香菜(かな)ちゃん。今書いてもらった英文、文法がおかしいから。助動詞の使い方に気をつけてもう一回書き直してみて」「はーい」 そして、現在中学一年生の次女・香菜も数学と英語の成績があまりよくないので、そちらも見てあげなければならない。 この二人の学習意欲が低いことは、前もってさやかと秦野夫人から聞かされていた愛美だけれど、まさかここまで勉強嫌いだったとは……。(引き受けたのがわたしでよかったかも。さやかちゃんが引き受けてたら、もうとっくにサジ投げてただろうな) 根が真面目で努力家で、働くのが好きな愛美だから、この姉妹の家庭教師が務まっているのだ。現に、愛美以前に来た家庭教師は三日ともたずに辞めていったそうだし。(バイトと原稿を書くのに打ち込んでいられる間は純也さんのこと思い出さなくて済むし、わたしも実は助かってるんだよね) あのケンカ別れからずっと、純也さんからは電話もメッセージもウンともスンとも言ってこなくなった。だから彼が今どこで何をしているのか、あのクルーズ船に乗っているのかいないのかまったくもって分からない。……もっとも、気になってもいないし、愛美からも連絡するつもりはないけれど。(もしかして、わたしが手紙に「純也さんからメッセージが来ても既読スルーしてやる」って書いたから、向こうも意地になってるとか?) 本当にガキはどっちよ、と愛美は思う。あれだけ愛美のことを「意固地だ」「頑固なガキだ」と罵倒したくせに、やっていることは彼の方が子供っぽいというか大人げな
* * * * ――バイトの時間は午前中だけで、昼食後は自由時間となる。 愛美は自分の部屋で、姉妹の生徒たちに出した課題の添削をしていた。「……う~ん、二人共通の課題は読解力不足かな」 麻利絵と香菜、二人はどうして勉強ができないのか。どうすれば成績が上がるのか。その原因を探っていたのだけれど、何となく分かった気がする。 麻利絵も香菜も、基本的に問題を読み解く力が弱い。だから理解が追いつかないのだ。 では、どうしたら読解力が身につくのか――?「本を読むのがいちばんのトレーニングになるんだけど。あの二人、本なんか読まなそうだしなぁ……」 二人ともいわゆるギャル系で、オシャレやメイクなど自分の興味のあることには熱心だけれど、本は雑誌くらいしか読んでいるところを見たことがない。勉強中の休憩時間には、スマホを見ていることがほとんどだ。「せめて電子書籍でもいいんだけど、本はやっぱり紙書籍を読んでほしいなぁ」 紙の本のページをめくる動作だけで、脳は活性化されるらしい。この際、コミック本でもいいから勧めてみるべきだろうか? ――と考えに耽っていると、部屋のドアがノックされた。「――愛美先生、外いい天気だし、散歩行かない?」 ドアを開けると廊下に麻利絵と香菜の美少女姉妹が立っていて、愛美を散歩に誘いに来たらしい。「うん、行こう。この近くのカフェで、二人にクリームソーダごちそうしてあげるよ」「やったー! お姉ちゃん、愛美先生誘ってよかったね」「うん!」 というわけで、愛美は二人の生徒を引き連れて、秦野邸の近くにあるカフェで課外授業をすることにした。 * * * *「「――いただきま~す♪」」 麻利絵と香菜の姉妹がクリームソーダを美味しそうに食べ始めるのを、愛美はいちごタルトセットのアイスティーを飲みながら眺めていたけれど。先生の顔になって課外授業を始めた。「麻利絵ちゃん、香菜ちゃん。食べながらでいいから聞いて。――わたし、二人の課題に目を通して分かったんだけど、二人に共通して足りないのはズバリ、読解力だと思うの」「読解力?」「そう。問題を読み解く力。二人にはそれが欠けてるの。そこでわたしから質問なんだけど、二人って本を読むの苦手でしょ?」 姉妹は顔を見合わせた後、同時にコクンと頷いた。
「あたしは雑誌くらいしか読まないし、香菜も本読んでるところ見たことないよ」「うん。スマホ弄ってることの方が多いよね」「やっぱりね。そこで、愛美先生から一つ、二人に宿題を出します。この夏休みの間に一人一冊、何か本を読むこと。ただし雑誌以外で」「「えーーーーっ!?」」 愛美の提案に、姉妹揃って盛大なブーイングをした。「『えー』じゃないの。読むのはコミックでもいいから。最近のコミックは勉強になるのも多いからね。ホントは活字の本限定にしたいところを、これでも譲歩してるつもりだよ。読解力を養うには、読書がいちばん手っ取り早いの。特に麻利絵ちゃんは、受験にも絶対に役立つから。騙されたと思ってやってみて」「…………はーい」「マンガでもいいんだよね? じゃああたしも読書やってみる!」「うん。――じゃあ、先生の時間はここまで。ここからは二人のお姉さんとして、質問に答えようかな。二人とも、わたしに訊きたいことない?」 一人の女子高生に戻った愛美に、姉妹から質問が飛んでくる。「愛美先生、彼氏いるの?」「お母さんが言ってたけど、愛美先生、作家だってホント?」「彼氏はいるよ。十三歳も年上の」 麻利絵からの質問には、そう答えた。「えっ、そんなに年上なの!?」「うん。でも今ケンカ中でね、メッセージも既読スルーしてるんだ」 この夏だけの教え子にこんなことを言うのも何だけれど、愛美はそれも正直に打ち明けた。「――で、わたしが作家だっていうのはホントだよ。去年の秋に、〈イマジン〉っていう文芸誌でデビューしたの」「へぇ、スゴ~い!」「でも、まだ本は出てないの。秋に短編集が発売されることは決まってるけど。で、今長編小説を執筆してて、もうじき書き上がる」 短編集が出版されることは、夏休み前に岡部さんから知らされた。夏休みが終わったら、ゲラチェックの仕事も入るのでますます忙しくなりそうだ。「へぇ、スゴいスゴい! 小説書ける人ってマジ尊敬しちゃう! やっぱり愛美先生もいっぱい本読んだの?」「そうだね、そりゃもう小さいころからいっぱい読んできたよ。わたし、実は施設で育ったの。施設ではTVを観る時間も限られてたし、ゲームもできないし、スマホも持ってなかったし。楽しみって読書くらいしかなくて」 小説を書き始めたのは小学校の高学年からだった。中学では文芸部に入り、部長にま
* * * * というわけで、卒業式前の連休――というか厳密に言えば自由登校期間だけれど――の初日、二泊三日分の荷物を携えた愛美とさやかはJR長野駅の前に立っていた。「――愛美、あたしの分まで交通費全額出してもらっちゃって悪いね。でもよかったの?」「いいのいいの! わたし今、口座に大金入ってるから。ひとりじゃ使いきれないし、使い道も分かんないし」 冬休みに突然舞い込んできた二百万円というお金は、まだギリギリ高校生でしかも施設育ちの愛美にとってはとんでもない大金だった。作家として原稿料も振り込まれてくるけれど、さすがに百万円単位はケタが違う。印税でも入ってこない限り、そんな金額は目にすることがないと思っていた。「そっか、ありがとね」 多分、さやかもそんな大金はあまり見ないんじゃないだろうか。 そして、愛美に自分の分まで交通費を負担してもらったことを申し訳なく感じているだろうから、後で「立て替えてもらった分、返すよ」と言ってくるに違いない。その分を受け取るべきかどうか、愛美は迷っていた。 さやかの顔を立てるなら、素直に受け取るべきだろうけれど。愛美としては貸しにしているつもりはないので、返してもらうのも何か違う気がしているのだ。 それはきっと、もっと大きな金額を愛美に投資してくれている〝あしながおじさん〟=純也さんも同じなんだろうと愛美は思うのだけれど……。「――農園主の善三さんの車、もうすぐこっちに来るって。奥さんの多恵さんからメッセージ来てるよ」「そっか」 スマホに届いたメッセージを見せた愛美にさやかが頷いていると、二人の目の前に千藤農園の白いミニバンが停まった。助手席から多恵さんが降りてくる。「愛美ちゃん、お待たせしちゃってごめんなさいねぇ。――あら、そちらが電話で言ってたお友だちね?」「はい。牧村さやかちゃんです」「初めまして。愛美の大親友の牧村さやかです。今日から三日間、お世話になります」 さやかが礼儀正しく挨拶をすると、多恵さんはニコニコ笑いながら「こちらこそよろしく」と挨拶を返してくれた。「静かな場所で過ごしたくて、ここに来たいって言ったそうだけど、ウチもまあまあ賑やかよ。だからあまり落ち着かないかもしれないわねぇ」「いえいえ! 寮の食堂に比べたら全然静かだと思います。ね、愛美?」「うん、そうだね。多恵さん、ウ
――今年の学年末テストもバレンタインデーも終わり、卒業式が間近に迫った三月初旬。さやかが思いがけないことを愛美に言った。「卒業式前の連休、あたしも一緒に長野の千藤農園に行きたいな。愛美、執筆の息抜きに行きたいって言ってたじゃん」「えっ、わたしは別に構わないけど……。さやかちゃん、急にどうしたの?」 部屋の勉強スペースで執筆をしていた愛美は、キーボードを叩いていた手を止めて小首を傾げた。彼女が「千藤農園へ行きたい」なんて言ったことは今まで一度もなかったから。「いやぁ、愛美がいいところだって言ってたし、あたしも前から一度は行ってみたいと思ってたんだよね。純也さんのお母さん代わりだったっていう人にも会ってみたかったしさ。っていうかぶっちゃけ、最近食堂がうるさくてストレスなんだわ」「あー……、確かに。会話もままならない感じだもんね」 さやかも言ったとおり、最近〈双葉寮〉の食堂では特に夕食の時間、みんなが一斉におしゃべりをする声が大きくこだましてやかましいくらいである。隣り同士や向かい合って座っていても、話す時には手でメガホンを作って「おーい!」とやらなければ聞こえないのだ。そりゃあストレスにもなるだろう。「分かった、わたしから連絡取ってみるよ。この時期だと……、農園では夏野菜の苗を植え始めたりとかでちょっとずつ忙しくなるだろうから、一緒にお手伝いしようね。あと、純也さんと二人で行った場所とかも案内してあげる」「やった、ありがと! 野菜育てるお手伝いなら、ウチもおばあちゃんが家庭菜園やってるからあたしもよくやってたよ。じゃあ、連絡よろしくね」「うん」 愛美のスマホには、千藤農園の電話番号はもちろん多恵さんの携帯電話の番号も登録してある。愛美から連絡したら、多恵さんはびっくりしながらも喜んでくれるだろう。ましてや、今回は一人ではなく友だちも一人連れていくんだと言ったら、大喜びで歓迎してくれるだろう。「じゃあ、原稿がキリのいいところまで書けたら、さっそく多恵さんに電話してみよう」 という言葉どおり、愛美は執筆がひと段落ついたところで多恵さんの携帯に電話した。
* * * * 部活も引退したことで執筆時間を確保できるようになった愛美は、本格的に新作の執筆に取りかかることができるようになった。「――愛美、まだ書くの? あたしたち先に寝るよー」 〝十時消灯〟という寮の規則が廃止されたので、入浴後に勉強スペースの机にかじりついて一心不乱にノートパソコンのキーボードを叩き続けていた愛美に、さやかがあくび交じりに声をかけた。横では珠莉があくびを噛み殺している。「うん、もうちょっとだけ。電気はわたしが消しとくから、二人は先に寝てて」 本当に書きたいものを書く時、作家の筆は信じられないくらい乗るらしい。愛美もまさにそんな状態だった。「分かった。でも、明日も学校あるんだからあんまり夜ふかししないようにね。じゃあおやすみー」「夜ふかしは美容によろしくなくてよ。それじゃ、おやすみなさい」 親友らしく、気遣う口調で愛美に釘を刺してから、さやかと珠莉はそれぞれ寝室へ引っ込んでいった。「うん、おやすみ。――さて、今晩はあともうひと頑張り」 愛美は再びパソコンの画面に向き直り、タイピングを再開した。それから三十分ほど執筆を続け、キリのいいところまで書き終えたところで、タイピングの手を止めた。「……よし、今日はここまでで終わり。わたしも寝よう……」 勉強部屋の灯りを消し、寝室へスマホを持ち込んだ愛美は純也さんにメッセージを送った。 『部活も引退したので、今日からガッツリ新作の執筆始めました。 今度こそ、わたしの渾身の一作! 出版されたらぜひ純也さんにも読んでほしいです。 じゃあ、おやすみなさい』 送信するとすぐに既読がついて、返信が来た。『執筆ごくろうさま。 君の渾身の一作、俺もぜひ読んでみたいな。楽しみに待ってるよ。 でも、まだ学校の勉強もあるし、無理はしないように。 愛美ちゃん、おやすみ』「……純也さん、これって保護者としてのコメント? それとも恋人としてわたしのこと心配してくれてるの?」 愛美は思わずひとり首を傾げたけれど、どちらにしても、彼が愛美のことを気にかけてくれていることに違いはないので、「まあ、どっちでもいいや」と独りごちたのだった。 高校卒業まであと約二ヶ月。その間に、この小説の執筆はどこまで進められるだろう――?
――そして、高校生活最後の学期となる三学期が始まった。「――はい。じゃあ、今年度の短編小説コンテスト、大賞は二年生の村(むら)瀬(せ)あゆみさんの作品に決定ということで。以上で選考会を終わります。みんな、お疲れさまでした」 愛美は部長として、またこのコンテストの選考委員長として、ホワイトボードに書かれた最終候補作品のタイトルの横に赤の水性マーカーで丸印をつけてから言った。 (これでわたしも引退か……) 二年前にこのコンテストで大賞をもらい、当時の部長にスカウトされて二年生に親友してから入部したこの文芸部で、愛美はこの一年間部長を務めることになった。でも、プロの作家になれたのも、あの大賞受賞があってこそだと今なら思える。この部にはいい思い出しか残っていない。 ……と、愛美がしみじみ感慨にふけっていると――。「愛美先輩、今日まで部長、お疲れさまでした!」 労(ねぎら)いの言葉と共に、二年生の和田原絵梨奈から大きな花束が差し出された。見れば、他の三年生の部員たちもそれぞれ後輩から花束を受け取っている。 これはサプライズの引退セレモニーなんだと、愛美はそれでやっと気がついた。「わぁ、キレイなお花……。ありがとう、絵梨奈ちゃん! みんなも!」「愛美先輩とは同じ日に入部しましたけど、先輩は私にいつも親切にして下さいましたよね。だから、今度は私が愛美先輩みたいに後輩のみんなに親切にしていこうと思います。部長として」「えっ? ホントに絵梨奈ちゃん、わたしの後任で部長やってくれるの?」 いちばん親しくしていた後輩からの部長就任宣言に、愛美の声は思わず上ずった。「はい。ただ、正直私自身も務まる自信ありませんし、頼りないかもしれないので……。大学に上がってからも、時々先輩からアドバイスを頂いてもいいですか?」「もちろんだよ。わたしも部長就任を引き受けた時は『わたしに務まるのかな』ってあんまり自信なくて、後藤先輩とか、その前の北原部長に相談しながらどうにかやってきたの。だから絵梨奈ちゃんも、いつでも相談しに来てね。大歓迎だから」 「ホントですか!? ありがとうございます! でもいいのかなぁ? 愛美先輩はプロの作家先生だから、執筆のお仕事もあるでしょう?」「大丈夫だよ。むしろ、執筆にかかりっきりになる方が息が詰まりそうだから。絵梨奈ちゃんとおしゃべりして
それはともかく、わたしは園長先生から両親のお墓の場所を教えてもらって、クリスマス会の翌日、園長先生と二人でお墓参りに行ってきました。〈わかば園〉で聡美園長先生たちによくして頂いたこと、そのおかげで今横浜の全寮制の女子校に通ってること、そしてプロの作家になれたことを天国にいる両親にやっと報告できて、すごく嬉しかったです。 園長先生はさっそくわたしが寄付したお金を役立てて下さって、今年のクリスマス会のごちそうとケーキをグレードアップさせて下さいました。おかげで園の弟妹たちは大喜びしてくれました。まあ、ここのゴハンだって元々そんなにお粗末じゃなかったですけどね。 そしておじさま、今年もこの施設の子供たちのためにクリスマスプレゼントをドッサリ用意して下さってありがとう。もちろん、おじさまだけがお金を出して下さったわけじゃないでしょうけど。名前は出さなくても、わたしにはちゃんと分かってますから。 お正月には、施設のみんなで近くにある小さな神社へ初詣に行ってきました。やっぱりおみくじはなかったけど……。 もうすぐ三学期が始まるので、また寮に帰らないといけないのが名残惜しいです。やっぱり〈わかば園〉はわたしにとって実家でした。三年近く離れて戻ってきたら、ここで暮らしてた頃より居心地よく感じました。 三学期が始まったら、文芸部の短編小説コンテストの選考作業をもって文芸部部長も引退。そして卒業の日を待つのみです。わたしはその間に、〈わかば園〉を舞台にした新作の執筆に入ります。今度こそ出版まで漕ぎつけられるよう、そしておじさまやみんなにに読んでもらえるよう頑張って書きます! ここにいる間にもうプロットはでき上って、担当編集者さんにもメールでOKをもらってます。 では、残り少ない高校生活を楽しく有意義に過ごそうと思います。 かしこ一月六日 愛美』****
****『拝啓、あしながおじさん。 新年あけましておめでとうございます。おじさまはこの年末年始、どんなふうに過ごしてましたか? わたしは今年の冬休み、予定どおり山梨の〈わかば園〉で過ごしてます。新作の取材もしつつ、弟妹たちと一緒に遊んだり、勉強を見てあげたり。 施設にはリョウちゃん(今は藤(ふじ)井(い)涼介くん)も帰ってきてます。新しいお家に引き取られてからも、夏休みと冬休みには帰ってきてるんだそうです。向こうのご両親が「いいよ」って言ってくれてるらしくて。ホント、いい人たちに引き取ってもらえたなぁって思います。おじさま、ありがとう! お願いしててよかった! リョウちゃんは今、静岡のサッカーの強豪高校に通ってて、三年前よりサッカーの腕前もかなり上達してました。体つきも逞しくなってるけど、あの無邪気な笑顔は全然変わってなかった。「やっぱりリョウちゃんだ!」ってわたしも懐かしくなりました。 そして、わたしが今回いちばん知りたかったこと――両親がどうして死んでしまったのかも、聡美園長先生から話を聞かせてもらえました。 わたしの両親は十六年前の十二月、航空機の墜落事故で犠牲になってたんです。で、両親は事故が起きる二日前に、小学校時代の恩師だった聡美園長にまだ幼かったわたしを預けたらしいんです。親戚の法事に、どうしてもわたしを連れていけないから、って。でも、それが最後になっちゃったそうで……。 幸いにも両親の遺体は状態がよかったから、園長先生が身元
「わたしが作家になれたのも、その人のおかげなんだよ。だから、わたしも感謝してるの」「そっか。うん、めちゃめちゃいい人だよな。で、姉ちゃん。さっき言ってた『新作のための取材』ってどういうこと?」「あのね、新作はここを舞台にして書くつもりなの。ここにいた頃のわたしを主人公のモデルにして。……この施設がわたしの、作家としての原点だと思ってるから」 もし両親が生きていて、この施設で暮らすことがなかったとしたら、愛美は果たして「作家になりたい」という夢を抱いていただろうか……? そう思うと、やっぱり愛美の作家としての原点はここなのだと愛美は思うのだった。「オレも久しぶりに愛美姉ちゃんと過ごせて嬉しいよ。静岡に行って、高校に上がってから夏休みにもここに帰ってきてたけど、姉ちゃんがいないと淋しかったからさ。また一緒にサッカーの練習、付き合ってよ」「いいよ。でもリョウちゃん、サッカー上手くなってるからついて行けるかな……」 三年近く会っていない間に、彼のサッカーはグンと上達している。サッカーの強豪校に進学させてもらったからでもあると思うけれど、今の涼介に愛美はついて行けるかちょっと不安だ。「大丈夫だよ、一緒にボールを追いかけられるだけでオレは楽しいから」「そっか」 いちばん年齢の近かった涼介と再会できただけで、愛美はここを離れていた三年間という時間がまた巻き戻ったような気持ちになった。 * * * * その夜、〈わかば園〉では施設を卒業した愛美と涼介も参加してのクリスマス会が行われた。 今年のクリスマス会は、早速愛美が寄付したお金も使われたのか例年に増してケーキもごちそうも豪華になっていて、子供たちも大喜びだった。 そして、例年どおり〝あしながおじさん〟=田中太郎氏=純也さんを含む理事会から子供たちへのクリスマスプレゼントもどっさり用意されていて、「そうそう、これがここのクリスマスだったなぁ」と懐かしくなった。
* * * * 愛美は宿舎へ向かう前に、庭の方を通りかかった。サッカー少年の涼介が、今日もここでサッカーの練習をしているような気が下から。 今もこの施設に暮らす男の子たちに混ざって、高校生くらいの少年が一人、サッカーボールを追いかけながら走っている。愛美は彼の顔に、自分がよく知っている少年の面影を見た。「――あっ、やっぱりいた! お~い、リョウちゃーん!」 手を振りながら呼びかけると、驚きながらも手を振り返してくれた少年――小谷涼介は、身長が少し伸びて筋肉もついているけれど、顔は三年前とほとんど変わっていない。「愛美姉ちゃん! 久しぶり……っていうかなんでここに? ――あ、ちょっとごめん! お前ら、今日の練習はここまで。もうすぐ晩メシだから、ちゃんと手洗えよ!」 子供たちのコーチをしていたらしい涼介は、泥まみれになっている彼らに練習の終了を告げた。三年近くここに帰ってこない間に、彼もすっかり〝お兄さん〟になっていた。「リョウちゃん、元気そうだね。わたしもね、今年の冬休みの間はここで過ごすことにしたんだよ。新作のための取材も兼ねてるんだけど」「そっか。そういや愛美姉ちゃん、作家になったんだよな。おめでと。オレも本買ったよ。義父(とう)さんも義母(かあ)さんも、『この本は施設にいた頃のお姉ちゃんが書いたんだ』ってオレが言ったら二人とも買ってくれてさ。ウチにはあの本が三冊もあるんだぜ」「そうなんだ? リョウちゃん、すっかり新しいお家に馴染んでるみたいだね。よかった」 自分が〝あしながおじさん〟=純也さんにお願いして見つけてもらった涼介の養父母。彼がその家に馴染んでいるか、愛美はずっと心配だったけれど、彼の口ぶりからしてすっかり気に入っているようでホッとした。「うん。二人とも、オレにすごくよくしてくれてるよ。園長先生から聞いたんだけど、愛美姉ちゃんが理事の人に頼み込んで見つけてくれたんだよな? 姉ちゃん、ありがとな」「ううん、わたしはただお願いしただけで、実際に動いてくれたのはその理事の人だよ。わたしの時にも手を差し伸べてくれたから、リョウちゃんのことも何とかしてくれるかな……と思ってダメもとでお願いしたら、ちゃんとしてくれて。ホント、いい人でしょ?」 彼はお金を出してくれて終わりではなく、常に相手にとって最善の方法を見つけてくれる。 愛
愛美の答えを聞いた園長は、困ったような笑みを浮かべた。「……実はね、愛美ちゃん。辺唐院さんも今月の第一水曜日にここへいらした時、私におっしゃってたのよ。『どうやら彼女は、僕の正体に気づいているみたいです』って。あなたは頭のいい子だから、いずれはこうなると思ってらっしゃったみたいで。もしかしたら、あなたに本当のことを打ち明けるタイミングを計りかねている感じだったわ」「そう……なんですか? だとしたら、彼はいつごろわたしに打ち明けてくれるつもりなんだろう……?」 彼がタイミングを計っていることは間違いないだろうけれど。打ち明けると愛美と気まずくなるのを恐れて、なかなか打ち明けられないというのもあるのかもしれない。「――とにかく、今日から二週間はあなたも実家に帰ってきたつもりで、ここでお過ごしなさい。ちゃんと取材には応じてあげるから。あとは子供たちの相手をしてくれたり、事務作業を手伝ってくれると助かるけれど。それはあくまであなたの意思に任せるわね」「はい」「あなたはまた六号室で寝泊まりしてもらおうかしらね。みんな、愛美お姉ちゃんと一緒に寝るのを楽しみにしてるから」「分かりました。六号室かぁ……、懐かしいなぁ」 愛美はここを巣立っていくまでずっと、六号室で五人の幼い弟妹たちと過ごしていたのだ。あれから三年近く経って、あの子たちも大きくなったことだろう。幼稚園の年長組だった子も、小学三年生になっているはずだ。「あ、あとね、涼介君も今、施設に帰ってきてるのよ。引き取られた先のご両親が、夏休みと冬休みにはここに帰ってきてもいいっておっしゃったらしくて」「えっ、リョウちゃんも? 嬉しいな」「ええ。今夜はクリスマス会をやるから、愛美ちゃんも参加してね。涼介君も参加したいって言ってたから。お正月にはみんなでまた近くの神社へ初詣に行きましょうね」「はい!」 まるで自分の祖母のような園長とのやり取りで、愛美はあっという間に三年前に引き戻されたような懐かしい気持ちになった。このアットホームな雰囲気が、この園での生活が楽しいと感じたいちばんの理由だった。「――そういえば、その服の感じも懐かしいわね。愛美ちゃん、ここにいた頃もよくブルーのギンガムチェックの服を着てた憶えがあるわ」 園長はふと、愛美が着ているブルーのギンガムチェックのシャツを眺めて目を細める。ボト